私と母
私と母の間にはちょっとだけ溝がある。
母は私のことを精神科の薬飲んでれば普通だと思ってる。
何回も自傷して、ODまでして病院送りになっているのに。
それでもまともだと思ってる。
それが少し、苦しくなるときがある。
私は弱いから、未来のことを考えると不安にしかならないし、どうしていいのか分からなくなる。いきなり気分が落ち込んで、泣き出したりもする。
だから先のことはあまり考えないことにしている。そういう努力をしている。
しかし母は分からない。
私が落ち込んだり自傷したりするのには正当な理由がちゃんとあるんだと思ってる。
気分が落ちる原因なんて正直あるときもあれば、ないときもあるのに。
漠然とした不安に襲われることなんてしょっちゅうだ。
病気に理解がないわけじゃないけど、でも理解しきれているわけでもない。
そして我が子だからこそ、まともだと信じたいのだと思う。
だから私と母には溝がある。
私はその都度母に説明しているのだけど。
きっとまだ私のことを信じてる。
ごめんね、期待に応えられなくて。
私は思われてるほどまともじゃない。
地の声
何かあれだ。
最近偉そうなことばかり書いてる気がする。
自分のした後悔を人にしてほしくないなあと思ってしまってダメだ。
でも経験したからには、誰かに届けることによって生まれるものもあるかもしれないし、うーん。
伝えるって難しいね。
恥と失敗の多い人生を送ってきたもので、反面教師にしてもらえるような経験だけは多いんだよね。
何かこう、おもしろおかしく書きたいなあと思いつつ、文章力がないばっかりに全然面白くない記事になってる。
できるだけ飾らず、書きやすいように、自由に書いてるけど。
読みやすいように書かなきゃ意味ないよなあ。
うむ、頑張ります。
とりあえずブログやTwitterは楽しいなあ。
都合のいい関係って何だ
性欲を満たすだけの行為に嫌悪感を感じるようになったのは、自分がそういう経験をしたからなんだろうなあと思う。
人間の三大欲求の一つなのだから、誰しも性欲があるのは当たり前のことなのだ。
しかしながら、今の社会に生きている以上誰彼構わずにそういう行為を求めることはできないはずだ。
双方の合意がなければそれは強姦という犯罪になってしまう。
セックスフレンドという言葉があるが、これは恋人関係などではない者同士が合意の上で性行為を致すことができる魔法の言葉だ。
所謂、体だけの関係だ。
性欲を満たすだけの目的ならば、大変都合のいい関係だと思う。
ただ私は考えるのだ。
求めているのは、本当に肉体関係だけなのだろうかと。
それで割りきれる人はどれくらいいるのだろうかと。
個人的な経験から言うと、都合のいい関係なんてないと思う。
肉体的な距離感の近さは、必ず精神にも影響を及ぼす。どちらかに情が湧いたら、それはもう都合のいい関係ではなくなるのだ。
それはいつか「片思い」という言葉に変わって、フレンドなんかではなくて、恋人関係を求め始めてしまう。女性なんかは特にそうなりやすいだろうと思う。
身を捧げるには、女性の方がリスクが高過ぎるから。
きっかけは性欲だけとは限らない。
寂しさや孤独感、承認欲求だってあるだろう。
しかしそれらの衝動からする行為は、果たしてそのマイナス感情を埋めてはくれるのだろうか。
再び経験から言う。
埋まらない。何も埋まらない。
寧ろ、寂しさが寂しさを呼び、孤独感は強まり、自分の存在価値が揺らいでくる。
だって、必要とされているのは体だけなのだから。
それはとても悲しいことなのだ。
性欲を満たすことを否定はしない。出来ない。
ただし、無闇やたらに誰かを傷付けないでほしい。
愛情や信頼関係を育んだ上での行為を心掛けてほしい。
自分の体を安売りしないでほしい。
誰もが後悔しないように、祈っている。
自傷や自殺未遂の傷みは強く生きてる証拠
「病んだ」と言って、自傷画像をツイートする若者の多さに目が眩む。
その「病んだ」原因は、「学校が嫌」だったり、「寂しい」だったり、様々なのだが、私自身自傷癖を持ち合わせる身としては、共感出来たり出来なかったりこれまた様々だったりする。まあ私の共感などは必要もないことなのだが。
とりあえず言いたいのは、画像を載せるのはやめてほしいということだ。
単純に気分が悪くなるから。
あとは、「切りたい、切ろうかな」みたいな声明を事前に出すのもやめて頂きたい。
勝手に「助けてあげなきゃ」って思って、こっちの方が穏やかじゃなくなるから。
軽々しい気持ちでリストカットをしているわけではないことは重々分かっている。
しかしそれを他人に見せびらかすのはどうだろうかと思う。
折角SNSという匿名性の高いツールを使っているのなら、まず言葉で助けを求めればいい。
それが意味のないことだと感じるなら、わざわざ自傷画像を載せることだって意味のないことだと理解してほしい。
やるならひたすらこっそりとやってくれ。
その行為を「ストレス発散」と言うのなら。
私も最近リストカットをしたけれど、それは「死にたい」と思っての行動だった。
思いの外痛くて、自殺しようなんて気も落ち着いたのだけれど、精神科の医師には「それが生きる力ですよ」とニッコリ微笑まれた。
そうなのだ。
死ぬのは痛いのだ。
ましてや自殺なんて超痛いに違いないのだ。
その「痛い」が自殺を踏みとどまる、人間の生命力なのだと思うと、痛覚とはとても大事な感覚なのだということに気付く。
ああ生きているんだなと実感する、唯一の感覚かもしれない。
そう、痛いのは嫌なことだけどわりと大事なのだ。
自傷をやめろとは言えないし言わない。
それで気が紛れることを知っているから。
ただそんなの見たくない人だって沢山いるのは理解してほしい。
勝手にやってればいいのだ。
ストレス発散とはそういうものだ。
きっと経験を積んでいくと気付くときがくる。
自傷して気が紛れるうちは大したことで悩んでないなって。
傷つけて済むなら簡単なのだ。
自己解決できているのだから。
切ってもどうしようもない悩みがこれからいくつも出てくる。
それをどう解決していくかが生きる上での課題になっていくことに、若いうちは気付かないだけ。
頑張れ若者たち。
自傷なんかしてないで、もっと有益なストレス発散方法でもリストアップしておいた方が為になるよ。
【妊娠26w】不安はさよなら、幸せな未来を思い描く
現在妊娠26週。明日で丁度27週になる。
目標の28週まであと1週間。
長い入院生活はストレスも溜まるけど、やっとここまで来たか~と感慨深くもある。
元気に産んであげるためにはまだまだおなかにいてもらう必要はあるけど、今のところ二人ともすこぶる元気そうなので安心している次第である。
こんな母親の中でも、ぐるぐる動き回りながら成長してくれているのはとてもありがたいし、不思議な気持ちにもなるけれど。
ほんとにほんとに不思議なもので、元気で元気で仕方がないのが伝わってくるんだ。不思議。
まだ先の話だけど、この子たちが産まれたら私は子育てをするのだなあと、まあ実感はまだないのだけど、ふわっと思っている。
母親になるという、立場の変化というか、環境の変化というか、そういうものにちゃんと対応できるか不安がある。
ペットを飼うわけじゃない。
人間を、しかも二人も育てるんだと思うと責任感で押し潰されそうになるのも事実である。
幸せなこと、ではあるのかもしれない。
でも今はまだよく分からない。
ただくろさんが喜んでくれたから、私も嬉しいと感じている。
くろさんの幸せが私の幸せだもの。
あと、こどもが産まれるにあたり目標ができた。
マイホーム購入、という目標。
私の復職、という目標。
こどもをちゃんと育てていく、という目標。
すごいことだなあと感じる。
親になるって簡単なことじゃない。
不安もあるけど、楽しみも同じくらいある。
そんな目標に向かって、じゃあどうする?こうする?ってくろさんと会議するのが、まるで希望に満ち溢れているようで今は楽しいんだ。
こどもがいることだけが幸せじゃないけれど、とりあえず今は出産を待ち遠しく思う。
先のことは、不安もあるから一人ではあまり考えないようにしている。
楽しい未来だけを想像する。
理想の家庭を思い描く。
妊娠中だけに限ったことじゃなく、ありふれた日常の中でも大事なことだと思う。
未来は明るくて楽しみが多い方が、前に進みたくなるしね。
女子高生の中の聖人君子という存在
聖人君子みたいだと、高校生の頃に友達に言われたのを今でも覚えている。
「どこが?」と、全くピンとこなかった記憶がある。
でもあんまりにも納得できなかったから、噛み砕くように考えて、きっと彼女にとったら私は特別な存在だったんだろうと思うことにした。
別段ものすごく仲がよかったわけじゃないけれど、昼ごはんを毎日一緒に食べるくらいにはコミュニケーションは取っていた、そんな関係だった。
彼女は可愛くて、男子ウケがいいような少しおませな女の子。でもそういう子って、同性からの視線がきつかったりするから、裏で何を言われていたのかまでは知らないけど、きっと万人ウケはしなかったのだと思う。
私はその手の話題は苦手だったから、そういう話をしてくるような子とはあまり関係をもったことがない。
とにかくかやの外にいたい人間だったのだ。
彼女は私のことをきっと、甘やかしてくれる対象と思っていたような気がする。
高校生なりの下ネタは躊躇なく言ってくるし、抱きついてくるし、パンツまで見せてくる。
私はきみの彼氏じゃないんだぞ、とこっちは思わずにはいられない。
でもそれは安心していたからの行動だったのだと思う。私は裏で悪口を言ったり、それに同意したりはしなかったから。
正直、特別優しくなんかしていない。
聖人君子と言われても、そんなに素晴らしい行いをしていたわけじゃない。
でも彼女からしたらそう見えたというだけの話。
思春期の女子のそういう微妙な関係性は難しさを極めている。
下手なことをすれば、陰口を言われ、仲間外れにされる。ひどければいじめに繋がっていく。
そういう群れの掟みたいなものに縛られたくなかったから私はかやの外を選んだ。
そんな話題入れなくても友達関係に問題はないし。
学生の頃って、そんなものなのだと思う。
群れに入っていない奴がいると安心する。
女子は特に、そういう存在がいると甘えたくなるのかもしれないし、彼女のいう聖人君子みたいに感じるものなのかもしれない。
今でもピンときてなかったりするのだけど。
そんな勝手な考察。
うまく言えないけれど、やっぱり私は聖人君子なんかじゃないよ。
女子トークの微妙な変化を楽しむ
「どんな人がタイプなのー?」
恋愛トークでよく女子たちの間で聞かれる言葉である。
私も昔はよく、「顔の濃い人!」とか「逆三角形の身長高い人!」とか「年下!」とか答えていた。
嘘じゃない、本当のことである。
当時はそんな男性に魅力を感じていた私である。
聞けば各々、様々な回答が返ってくるからついつい楽しくて聞いてしまう。
その手の話題は途端に盛り上がるし、「分かる~!」とか「え~まじでー?」とか反応も人の数だけあったりするから面白い。
まあ昔の、20歳前後の頃の話だ。
思えば最近、そんな女子トークしてないなあと感じる。
新しい職場で仲良くなった人としたっきりかなあ。
でも、30~40代にもなってくると「イケメン、若い子」とか「普通の人なら、、、」とか、そりゃあもう性格が表れるような返答がきたりする。
何だろう、夢とか希望とかトキメキとかが感じられない、というか。
理想が高い人もいれば、低い人もいれば、というか。
とにかく若い頃とは理想のタイプが変わったんだろうなあという人が多い。
かく言う私だって旦那と結婚して変わったのだけれど。
好きな人が理想のタイプ、ってやつである。
ただのノロケである。
女子トークも年代によって変わってくるのを実感する。
そんなお年頃。
理想と現実の間には大きな壁があることに気付き始める20代後半。
これから私たちの女子トークはどんな変化を遂げていくのか見物である。
いつまで「女子」と呼んでいいかも迷うけれど、女性は誰しも心は乙女のままなのだから、きっといくつになっても「女子」なのである。