過去のブログと今のブログを比べる
専門学生のときにもブログを書いていた。
完全に身内向けだったが、今読み返すと難しいことなんて一つも書いていない。
「今日はこんなことが楽しかった」
「徹夜でテンションが上がっている」
「課題に追われているけど何故かアニメを見ている」
など。
頭悪そうで、どうしようもなく日々を謳歌しているのが伝わってくる日記だ。
メンタルがどうの、気分がどうの、なんて一言も書いていない。
ただ目の前のことに必死で無邪気で、全力で楽しんでいるのが伝わってくる、過去の自分が書いたものなのに人の日記のように感じる、そんなブログ。
書きたい内容が違うんだ、というのは言い訳にしかならない気がする。
あんな楽しそうな日記を今書けと言われても思い浮かばないもの。
青春してたなあと思い出に浸るしかない。
とは言っても、別に今が楽しくないわけではないのだ。
それなりに楽しいことやはしゃぎたくなるようなことはあって、それを糧に過ごしていたりする。
恥ずかしい話をすると、こうして文章を書いているのだって楽しいことの一つだ。
薄っぺらくて、本当に自己満足なものではあるけど、でも表現したり作り出したりすることは楽しい。
誰かに届いて欲しいなと願って書くこともあるし、単に自分は今こう思っています、のこともある。
ただ、読みにくい文章だったら嫌だなあと思って旦那氏にアドバイスをもらったりもしている。
ノウハウやハウツー物は書けないし書く気もなくて、何かのオススメをするにもそんなに使い込んでいたり読み込んでいるものもなくて、ただひたすら日々思ったことをぶちまける、エッセイにしては乱暴過ぎる文章をルンルン気分で書き殴っている私は、何を目指しているのか自分自身でもよく分からないでいる。
いや、何も目指してないんだけどね。笑
とにかく、専門学生時代のブログも、今のこのブログも、もっと後になったらまた楽しく読み返せるんだろうなあと思うとそれも待ち遠しい。
日記って本当に書いてて損はないなあとしみじみ思うのだった。
女になる、ということ(前回の続き)
今まで女としての強い武器なんて持っていたことがあったか、と聞かれれば、「ない、一度もない」としか答えられない人生を歩んできた私である。
それが何故アラサーにもなった今頃、こだわり始めたのかという話になる。
特にスタイルが良いわけではない。
身長は人並み以下だし、胸も小さいし、痩せてもいない。
おまけに負傷兵のように体中傷だらけ。
よく聞く「体目的で異性が寄ってくる」ということはまずない。今までも経験がない。
ならば顔立ちが整っているかと問われればそんなこともない。
男顔よりであるし、目が二重なくらいしか褒められそうなところがない。
性格なんて、言わずもがなである。
ワガママだし、一丁前に我だけは強いし、そのくせメンタルは弱いし、気立てもよくない。
おまけに家事が得意なわけでもなければ、言動が華やかなわけでもなく、というか喫煙者だし、言葉遣いもよくないし。
こう挙げ連ねていくと、どれ程女としての魅力に欠けているかがわかって、少し悲しくなる次第である。
次第であるが、性別だけは立派に女だから困ってしまう。
恐らく、自信がないだけなのだ。
今まで性別に囚われない生き方をしてきたけれど、私は晴れて結婚して最愛の旦那がいて、その旦那に嫌われやしないかと恐れているのだ。
そしてまた推測であるが、旦那はそんなことを気にする人間ではない。
ないはずなのに、私が勝手に気にしているだけの話である。
今までの人生の中で、女らしい女として生きてきたことがないからこそ、こだわるのだ。
普通に自分の性別を謳歌してきた人間ならあまり気にしないのかもしれない。
そんな風ならよかったのだけれど、実際問題そうじゃないから今こうやって悩んでいる。
大した問題ではない。
性別は確かに女だったけれど、それを意識せずに生きてきた人間が、旦那によってやっと意識するようになっただけである。
その変化に少しだけ戸惑っているだけの、ただの独り言である。
女の賞味期限
少女はいつ女性になるのだろう。
女性はいつ女性じゃなくなくなるのだろう。
妊娠して以来そんなことばかり考えている。
私は今何に属しているのかも分からないのに、もう長くない間に、少女でも女性でもなくなる気がして怖いのだ。
そしたら私は何になるのだろう。
女でなくなったら、誰が私を愛してくれるのだろう。
そんな疑問と不安が胸の中にもやをかける。
長くない間に、というのは要するに妊娠、出産後の話である。
妊娠中の今だって自分の体の変化に日々驚き、女としての魅力がなくなっていくことに絶望しているのに、出産後なんてどうなるんだろうと今から心配していたりするのだ。
妊娠線は確実に残るだろうし、帝王切開だから下腹部に手術痕も出来る。
私は幼い頃に心臓の手術もしているから、胸の下に大きくその傷跡も残っている。
おまけに、これは自業自得なのだけれど、アームカットや根性焼きの痕まであって、しかもケロイド体質なものだから些細な傷すら消えずにあちらこちらに蔓延っていたりする。
20代にして既に傷だらけの体だ。
海でビキニなんて着られないし、人に見せられるものじゃない。
こんな体のどこに魅力があるのだろうか。
女であるにはどうしたらいいのだろう。
勿論、体の特長だけが女というものを作っているわけではないだろう。
しかし母親になったら、女の私はどこへ行くのだろう。
いや、母親になっても、女は女だと思う。
でもこどもの前では母親でなければいけない。
夫の前では妻でなければいけないし。
そんな器用な使い分けが自分に出来るのか、甚だ不安である。
ただただ無意識的に女でいた今までとは違うんだ、と考えると何だか性別を捨てるようで怖い。
私はまだ、女にすがっていたいのだ。
母親になっても、歳を重ねても、魅力的な女性は沢山いる。
きっと惜しみ無い努力をしているのだと思う。
そのような存在に、果たして私はなれるのだろうか。
傷だらけの体でも愛してくれる旦那に、応えてあげられるだろうか。
私の女としての存在価値は、いつまで続くのだろうか。
体の変化とは不思議なものだとつくづく思う。
こんなにも、精神を揺るがすのだ。
そして私はこんなにも悩んでいる。
知らぬ間に、いつまでも女でいたいと切望しているのだ。
好きなものを見てモチベーションを上げる作戦②
不健康そうというか幸薄そうというか病んでそうというか、そういうのが全面に押し出された外見の女子に萌える。
出産後は、こんな画像みたいな子目指そう。
そうしよう。
ゆるふわパーマも好きだけど、折角直毛なんだしサラサラ前下がりボブにするんだ。
ダイエットして、ちゃんとメイクもして、「え?子持ちなの!?」って言われるように頑張る!
好きな物を見てモチベーションを上げる作戦①
元気出すために理想の縁側画像探してみた。
庭を眺めなながらタバコ吸うんだー。
あー素敵だなー。
ちょっと古めの感じが堪らんよねえ。
縁側萌えー。
【妊娠28w】マタニティブルー
どうも今日は調子がよくない。
また出産後のことを考えて勝手に不安なってる。
旦那と二人きりの幸せと、家族四人になったときの幸せとを天秤に掛けてゆらゆらさせている感覚。
妊娠するのは早かったんじゃないか?
間違っていたんじゃないか?
とすら考えてしまう。
だからどうこうできるわけでもないのに。
これはきっと、マタニティブルーというやつだ。
きっと誰だって初産の人は同じように不安なんだと思う。
私なんかに立派に人間を育てられるのか?
なんて考え始めたらキリがない程不安になる。
だから先のことは考えないようにしてたのに、結局ふと考えてしまう。
週数が進む毎に、楽しみな気持ちと不安な気持ちが押し寄せてくる。
正直、正常な反応だと思う。
この気持ちの揺れをコントロール出来れば。
以前書いたこの記事は、嘘じゃない。
四人家族での理想の生活。
http://byun08.hatenablog.com/entry/2018/05/17/122438
ここまで辿り着くにはどうしたらいいんだろう。
未知の世界が目の前に広がっていて、怖くて足がすくむ。
いずれ、どんな環境になっても私は幸せになりたいし、くろさんを幸せにしたいから、後悔なんかせずに毎日を送りたい。
きっと、大変なことも沢山あるだろうけど、楽しいことや嬉しいことも沢山待ってる。
未知の未来って、そういうものだと思う。
私は一人じゃない。
前向きに考えよう。
あ、だからね。
旦那さんの立場の人には奥さんの話いっぱい聞いてあげてほしいなと思う。
絶対一人にさせないでほしい。
不安で不安で仕方ないから。
育児は奥さん一人がやるものじゃないからね。
妊娠中から二人で共有して、協力していってほしいです。
ギャンブル依存の負の遺産
私は自分の幸せに対する価値観と金銭感覚を信じていない。
これはギャンブル依存になってからのことだ。
ギャンブルは人の幸せを感じる閾値を上げる。パチンコやスロットの激しい演出や刺激に慣れてしまうからだ。
美味しいごはんを食べられて幸せ、温かい布団でぐっすり眠れて幸せ、家族と共に居られて幸せ。
そういう日常的な幸福に反応できなくなってくる。
そして言わずもがな金銭感覚を狂わせる。
1万円が本当にものの30分で溶けていくのを、何とも思わなくなる。
そして、買い物をすることに抵抗感を覚えるようになるのだ。
「これを買ってお金を減らすくらいなら、パチンコをした方が増える可能性があって有益なんじゃないか?」
増える保証なんてないのにそう考え始める。
全くもって正常じゃない。
だから私は私を信じられない。
しかしだからこそ追求したい。
幸せの感じ方、幸せになるためのお金の使い方を。
借金は債務整理で無くなったけれど、こういった負の遺産はすぐには消えない。
だから私は人より努力して幸せについて学ばなければいけないし、学ぶべきだと思っている。
幸福度の高い人は、幸せに対する閾値が低いと聞いたことがある。
些細なことでも丁寧に汲み取って幸せを感じる。
私もそんな人間になりたいのだ。
きっと私が幸せでいることで、喜んで、または一緒に幸せになってくれる人がいるから。
なのでこれからも幸せについて考えて、発信していきたいと思います。
誰もが幸せになりますように、と祈って。